LAに行ってパライバ伝説と会った話
「来週ドバイへ向かうのでは遅すぎる」――そう聞き、私は急遽、翌日ロサンゼルスへ向かうことになりました。
その連絡を受けた時、私はミャンマーにいました。
これは、パライバトルマリン鉱山の元鉱山主であり、産出当時を知る生き証人ロベルト氏に会いに行った際の話です。
2024年7月某日、私はミャンマーのヤンゴンにあるボージョーアウンサンマーケットで、現地スタッフとともにスピネルの仕入れをしていました。すると、ブラジルでパライバトルマリンの採掘を共にしている仲間から連絡が入りました。
「ブラジルのとある銀行の貸金庫から、大量の無処理パライバトルマリンが見つかった。買わないかという話が出ている。どうしよう?」
私たちグループに連絡をくれたのは、ロベルト氏。彼はパラズール鉱山の持ち主であるハニアリー氏の兄であり、もう一人の弟リカルド氏は、現在もBPMの権利を一部保有しています。さらに、かつてキントスにあるジャーマン鉱山を発見したのもロベルト氏であり、その後ハニアリー氏が運営し、ドイツ人に権利を譲渡したという経緯があります。まさに、ブラジルのパライバトルマリン界における「生ける伝説」とも言える人物からの連絡でした。
「ロベルト氏が、来週ドバイで会えないかと言っているけど、誰か行ける人はいる?」
その問いに対し、私は「来週なら日本に戻っているので、行けます!」と即答しました。
しかし、話し合いの結果、「このような出物は本当に稀で、ドバイで時間を置いている間に他の人に買われてしまう可能性が高い」という結論に。そこで、「明日、彼の住んでいるLAに行こう!」という急展開となり、私もヤンゴンからLAへ飛ぶことになりました。

灼熱のヤンゴンや東京に比べると、ロサンゼルスの気候はとても過ごしやすく、夜になると肌寒いほどです。
そういえば、昨年はトランジットに失敗し、その流れでハリウッド観光をしましたが、まさかこんなにも早く再びこの地を訪れることになるとは思いませんでした。
こちらはLAの宝石街の看板、「JEWELRY DISTRICT」。なんとも素敵な響きです!

どのビルにも「JEWELRY」の文字が目立ち、まさに宝石街といった雰囲気です。
それぞれのビルには無数の宝石商のオフィスが詰まっており、一軒一軒見て回りたくなるほど。時間があればじっくり探索したいところです。

日本の宝石街「御徒町」とはだいぶ雰囲気が違います。
同じアメリカでも、ニューヨークと比べるとLAは治安が良さそうな印象です。夜間外出しても危険な雰囲気はありません。もちろん行かれる際は自己責任でお願いします。

LA行きが決まった際、ロベルト氏に「近場の安いビジネスホテルを予約してほしい」とお願いしていました。しかし、実際に押さえられていたのは「BILTMORE HOTEL」。
想像以上に格式高いホテルでした。ここはかつて王族や大統領が宿泊し、さらに昔はアカデミー賞の授賞式まで行われていた由緒ある場所。まさかこんなホテルに泊まることになるとは…!

ホテルの内装からも、その格式の高さが伝わってきます。実はこのホテル、「インディペンデンス・デイ」「ロッキー3」「オーシャンズ11」など、数多くの映画のロケ地としても有名です。私はあまり映画には詳しくありませんが、館内には「この部屋で○○の撮影が行われた」「ここに○○が宿泊した」といったパネルが飾られており、歴史の重みを感じさせます。

正直なところ、このホテルに宿泊できるだけでもLAに来た甲斐がありました。
しかし、今回の目的は観光ではありません。チェックインを済ませた後、ロベルト氏の友人のオフィスを訪問する予定です。本題はここからです。

ロベルト氏は、私たちの訪問をとても喜んでくれました。大量のパライバトルマリンを見せていただきながら、興味深い昔話をいろいろと聞かせてもらいました。
私の拙い英語ではすべてを理解するのは難しかったのですが、それでも、この貴重な話の一部をインターネット上に残すべきだと強く感じました。
1990年から1991年にかけて、パライバトルマリンの生産はピークを迎えました。急激な価格上昇により、鉱山の所有権をめぐる係争が発生し、その結果、約10年にわたる裁判が繰り広げられました。そして最終的に、バターリャ鉱区は3つに分割されることとなります。最初に発見された鉱脈を含むエリアはエイトー氏が獲得し、地元の土地所有者であるジョン・ヒッキー氏、そしてロベルト氏の弟であるハニアリー氏が、それぞれの採掘権を得ました。
ロベルト氏から、実際にこの話を聞く前は、権利争いということで、もっと殺伐としたものを想像していました。しかし、当時を懐かしむロベルト氏の口ぶりからは、少なくとも彼らの間に深刻な確執があったようには感じませんでした。

こちらが今回購入したバターリャ産のパライバトルマリンの写真です。ロベルト氏によると、これらは30年前に貸金庫に保管したまま忘れていたもので、銀行から連絡を受けたことで存在を思い出したのだそうです。現在当社で販売しているバターリャ産のパライバトルマリンは基本的にこのロットの石です。
当時のままの非加熱・未処理のパライバトルマリンであることを、ロベルト氏自身が保証しています。ただし、以前は鑑別機関で非加熱と認定されていたものの、中央宝石研究所の北脇博士によると、現在の鑑別基準の変化により、非加熱であることを証明するのは難しくなっているとのことです。
また、オイルの含浸についても、意図的な処理は行われていませんが、カットの際にどうしても内包物へオイルが浸透してしまう個体があるとのことでした。これは鑑別の限界のお話です。ご購入の際にはご了承ください。

夜のLAの街並みは、映画のワンシーンのような雰囲気でした。特に危険を感じることもなく、落ち着いた気持ちでバーへ。カウンターに座り、グラスを傾けながら過ごす時間は、まるで異国の日常に溶け込んだかのようでした。
店内のTVではちょうど大谷選手の試合が流れていて、ここがアメリカであることを改めて実感しました。

仕事を終えた後、一日だけハリウッド観光を楽しみました。歩いていると、どこかで見たことのある建物や、映画で見覚えのあるスターの手形があちこちに。せっかくなのでバスツアーにも参加し、「こちらがハリウッドスターの邸宅です!」という案内を聞きましたが、正直なところ、私は映画にあまり詳しくないので、ほとんどピンときませんでした。それでも、ハリウッドの雰囲気を味わうだけで十分に楽しめました。

ハードロックカフェは知っているので、お昼はそこで食事をしました。店内はロックな雰囲気で賑やかで、食事もボリューム満点。観光気分を味わいながら、しっかりエネルギー補給できました。
この旅の移動スケジュールは、なかなか壮絶なものでした。
往路:
羽田 → マカオ → バンコク → ヤンゴン
復路:
ヤンゴン → バンコク → 日本 → LA → 日本 → バンコク → 関空 → 羽田
特に帰路は、1週間のうち4日が機内泊という、これまでに経験したことのない過酷な旅程でした。本来、最後のバンコク行きは不要でしたが、バンコク⇔LA間の往復チケットを購入していたため、日本での途中降機が認められず、無駄な「バンコク → 関空 → 羽田」というルートが追加されることになったのです。